学問も宗教も行き着くところはこの世の真理。
学問と宗教。
正反対の性質を持っているように思われるが、目指すところは同じで、この世の真理だ。
アプローチが違うだけ。
自然本位か人間本位かというだけのこと。
学問は自然を基準にし、宗教は人間を基準にして考える。
どちらが正しくて、どちらが間違っているということではない。
ましてや、学問のほうが論理的だと、だから正しいんだということでもない。
両方に触れたほうがいろいろなことがわかるのにという話。
理解できないものを排除するだけでは、つまらない。
そういうものこそ大切にして生きていくべき。
わからないものにこそ、面白いことは詰まっていると思う。
廊下は走るものだと思っている。
「廊下を走ってはいけません。」
たまたま見ていたテレビで目に留まったシーンだが、誰もが想像できると思う。
けれど、僕は、ずっと何故か分からなかった。
昔からそういうものだったし、ただのお約束だと思っていた。
廊下で走っている子供を見かけたら、先生はそう言わなければいけない。
そういうルールなのだと。
とても、本気で注意しているとはとても思えなかった。
だから、当時小学生の僕としても、そう言われたところで、ただ、はーい、と受け流していただけだったし、ほかの子もそうだった。
走ると言ったって、目をつむりながらというわけでは、当然ない。
直線のところでは、人の流れは見えているから、よけながら走る。
危ないところといえば曲がり角くらいだが、それもそういうところでは特に注意をするし、スピードは落とすから、ぶつかることはない。
少なくとも僕は、一度足りとも誰かとぶつかったことがない。
こういう力を小さい頃から、磨いていたほうがいいと思う。
危険を察知して、対処する力だ。
お陰で、今も、人混みをスイスイと歩ける力が身についた。
当然、誰ともぶつからない。
まあ、人を避けるということに限らずいえば。
鉛筆削りでナイフは使わせるべきだし。
危ない遊具で遊ばせるべきだし。
危ないものにもっと日常的に触れさせるべきだ。
大人は子供を守るべきだけれど、それは将来も含めての話で、
その子が将来必要になる力を付けられる環境においてやらなければいけない。
つまり、ある程度の危険の中に置かなければいけないということだ。
世界は危険であふれている。
子供の世界でだけ、危ないものを排除したところで、それは大人がいいことをした気になっているだけで、大人が気持ちが良いだけだ。
そもそも子供は危ないことをして遊びたいものだ。
その中で、それをいなしていく力を身につける。
危険を察知して、対処する能力が養われずに社会に出ることになれば、それは不幸以外の何物でもない。
何かが起こっても、自分では対処できないのだから。
好きなキャラクターになりきれ。
面白おかしく生きたいという人に、おすすめの方法がある。
それが、タイトルに示したとおり、好きなキャラクターになりきれ、というものだ。
誰しも物語の一つや二つ、触れたことがあるだろう。
小学生の時に国語の授業で読んだ昔の話かもしれないし、自分で買って読んだ小説かもしれない。
テレビで見たアニメだといいう人もいれば、立ち読みした漫画雑誌だという人もいるだろう。
その中に、一人くらいかっこいいと思えるキャラクターがいなかっただろうか?
おそらくいたはずだ。
自分がそんなキャラクターになったら、それはきっと面白いはずだという発想だ。
環境が違うし、とか、才能がないし、みたいなことは関係ない。
才能は違えども、それは生き方には関係ない。
才能がなかろうが、途中で失敗するだけで、生き方そのものには影響しないはずだ。
この社会にあわないキャラクターだっているだろう。
ドラゴンボールの悟空だって、平和な社会じゃただのニートでしかない。
そのときは、ただ、「もし」のその先を想像してやればいいだけだ。
そのキャラクターの上辺をなぞるのではなくて、その精神性こそを真似る。
平和な社会になったらどうやって生きているのだろうか、と。
想像で補う。新しい物語を創造ればいい。
真似ることに抵抗のある人もいる。
自分を失うかもしれないということに恐怖心を抱いている人でも、心配いらない。
真似をしても、その人にはなれないからだ。
つまり、言い換えると、真似をしたところで、自分らしさは残るということだ。
少なくとも、そのキャラクターが好きだという自分は残る。
好きで真似しているんだから。
そしてそのキャラクターの多くは、何かを見本として生きていない。
特に意識することなく、自分を生きている。
当然だ。
作者にそう作られているのだから。
憧れられるキャラクターというのは、ほとんどと言っていいほど、自分を疑っていない。
その点が、もはや違う。
本物とまがい物の違いだ。
そして、まがい物でも構わない。
生きてて面白ければ、それでいい。
そういうふうに割りきって生きることだ。
そういう生き方を選べることが、すでに本物であるということなのだろう。
矛盾しているように聞こえるかもしれないが、世界とはそういうものだと、僕は思う。
ショットガンが力を持ち始めた。大企業と個人の話。
これからの時代を予測してみると、どうも個人の動きに期待が向けられるらしい。
いろんな人が集まって、みんなで寄り添い、ひとつの集合体となって、大きなことをなしていく。
これが今までの時代だったならば、これからは、
一人でも確かに立って、自立の上で、自分で考え、アイデアを出し、小さなことをなしていく。そして、そんな人がたくさんいる。
そういう社会に向かっていくだろう。
もう突っ込みつつあるのだが。
これは、出来の悪い人にとってはよろこばしい流れだ。
引きこもりだろうと大企業の社長だろうと、本来、人一人の発想力というのに大差がない。
差があるのは周りの人間とか、道具とか、情報とか、そういう環境だけだからである。
だから、たとえ一人だろうが行動さえ起こせれば、「個人でも活躍できる」という時代性が後押ししてくれる。
大切なのは、ちょっとしたアイデアと行動力。
天才は1%の発想と99%の努力だ。
という言葉が、違う意味でも現実になりつつあるわけだ。
結局、動ける人間が力を持つのだと思う。
競争しなくても、勝てる時代というのが、この先しばらく続くだろう。
5年か10年か、あるいはもっとか。
とにかく動ける人間は今のうちに動いておくべきだ。
好きなことをしていれば成功できる。
そんなボーナスタイムみたいな時代だと思う。
「新しい」とは、見たことがないものではなく見たことのあるものから何かが欠けているもの。
新しいことを探している人も多いだろう。
新しい商品、新しい企画、新しいサービス、新しいデザイン、新しいアート,新しい言葉、etc
いろいろとあると思うが、考えていてもそう簡単に思いつくものではない。
無から有を生み出すことができるのは、ほんの一握りの人間だけだからだ。
それができない人間は、違うアプローチで、「新しさ」を作らなければならない。
そんなときにできることはいくつかあるけれど、手っ取り早いことは何かをなくすこと。
今あるものの一部を削り取る作業だ。
しなくてもいいもの、なくてもいいものを削り、よりシンプルに、より便利に向かうこと。
これが、ひとつの新しさになる。
無から有を生み出すことはできなくても
有から別の有に作り変えること。
そして、それを「新しい」と定義できることが大きな力になる時代だと思う。
「知識を得れば、思考を失う。」というのが、現実らしい。
どこでもいいけれど、あるところを目指すとして、先人が道案内をしてくれる。
知識というのは、そういう性質のものだ。
しかしそれに慣れてしまえば、ガイド無しには自力で辿り着けなくなるのも当然だろう。
何度も通っているうち、いずれは、一人でそこに行けるようになる。
けれどそれ以外のところ、誰も行ったことがないところ。
そういうところに、ふと、行きたいと思ったときに、
自分一人で行ける力が、果たしてあるだろうか。
きっと、だれかに道案内をしてもらわなければ、行こうとはしないだろう。
行けるとさえ思わないだろう。
ガイドを頼るのも良いけれど、いつも頼っていては自分はいつまでも大きくなれない。
たまには、迷ってでも一人で向かう努力をすべき。
その助けになるのが、それまでの経験とか、知識だ。
ガイドに教えられたことを活かすために行動しなければ、経験も知識も何のために得たのか分からない。
目的地さえ、無くたってかまわない。
大切なのは迷うこと。
ふらふらと迷えば迷うだけ、未知の土地を踏めば踏むだけ自分というのは大きくなるものらしい。
迷うなんて、無駄な時間だと思うのかもしれないが、
そういう無駄を受け入れられるのが器が大きいということなのだろう。
わけの分からないところを一人でさまよえる力が、思考の力だ。
知識をつけたらそれ以上に未知の部分を一人でふらふらしてみたらいい。
まあ、現実を見てみると、多くの人はそんな時間は無さそうだ。
だから、どんどん力が失われるのだろう。
知っていれば、考えなくても答えに辿り着けるから便利ではある。
ただ、知らないことに出会ったとき、解き方の分からない問題に出会ったとき、
一人で、その問題を解決できるのかは疑問である。
知識頼りで、考える力を失ってしまった人が、それでも、苦労無く生きていけるとしたらそれはとんでもない量の知識を持った賢人か、
なにもせず、ものすごく小さくまとまった、いるかいないのかもよく分からないどうでもいい人かのどちらかなのだろう。
まあ、どう生きるかは、その人の自由である、というのは言うまでもないが。