社会考察と、思うこと。

思ったことをそのまま書いています。

「知識を得れば、思考を失う。」というのが、現実らしい。

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どこでもいいけれど、あるところを目指すとして、先人が道案内をしてくれる。
知識というのは、そういう性質のものだ。
しかしそれに慣れてしまえば、ガイド無しには自力で辿り着けなくなるのも当然だろう。

何度も通っているうち、いずれは、一人でそこに行けるようになる。

けれどそれ以外のところ、誰も行ったことがないところ。
そういうところに、ふと、行きたいと思ったときに、
自分一人で行ける力が、果たしてあるだろうか。

きっと、だれかに道案内をしてもらわなければ、行こうとはしないだろう。
行けるとさえ思わないだろう。

ガイドを頼るのも良いけれど、いつも頼っていては自分はいつまでも大きくなれない。
たまには、迷ってでも一人で向かう努力をすべき。
その助けになるのが、それまでの経験とか、知識だ。
ガイドに教えられたことを活かすために行動しなければ、経験も知識も何のために得たのか分からない。

目的地さえ、無くたってかまわない。
大切なのは迷うこと。
ふらふらと迷えば迷うだけ、未知の土地を踏めば踏むだけ自分というのは大きくなるものらしい。

迷うなんて、無駄な時間だと思うのかもしれないが、
そういう無駄を受け入れられるのが器が大きいということなのだろう。

わけの分からないところを一人でさまよえる力が、思考の力だ。
知識をつけたらそれ以上に未知の部分を一人でふらふらしてみたらいい。

まあ、現実を見てみると、多くの人はそんな時間は無さそうだ。
だから、どんどん力が失われるのだろう。

知っていれば、考えなくても答えに辿り着けるから便利ではある。
ただ、知らないことに出会ったとき、解き方の分からない問題に出会ったとき、
一人で、その問題を解決できるのかは疑問である。

知識頼りで、考える力を失ってしまった人が、それでも、苦労無く生きていけるとしたらそれはとんでもない量の知識を持った賢人か、
なにもせず、ものすごく小さくまとまった、いるかいないのかもよく分からないどうでもいい人かのどちらかなのだろう。

まあ、どう生きるかは、その人の自由である、というのは言うまでもないが。