社会考察と、思うこと。

思ったことをそのまま書いています。

いちばん身近な創作とは料理である。

僕はおそらく創作意欲が強い。

(素人ながらも)工作をしたり、絵を書いたり、音楽を弾いたり、

いろいろなことでそれを満たすけれど、人によっては、敷居の高いものも多いと思う。

毎日忙しい人もいるだろうし、なかなか何かを創るという機会に恵まれないということもあるだろう。

しかしやはり、創るということをしないと、頭はどんどん鈍っていく。

その鈍った頭で、生活しているから、毎日が曇って見えるということもあると思う。

だからこそ、毎日コツコツと、頭のトレーニングが必要になってくる。

クリエイティブな生活というのは、なかなかに疲れるときもあるが、とても充実するものだ。

景色が変わると言っても過言ではないだろう。

そういうトレーニングにおすすめしたいのが、料理だ。

芸術や音楽、工作というものは敷居が高くても、

料理くらいは、誰もがする機会があるだろう。

そして、子供でも見よう見まねでできるくらいには手軽だ。

まずは、簡単なことから始めてみるといい。

最初は、簡単な料理、基礎的な技術を必要とする料理。

そういうものから作ってみるといい。

レシピを見ながらやってみる。

基本の部分さえ押さえられたら、あとは自分で創作してみる。

基本のレシピに、何を加えたらどういう味になるか。

これをしなかったら、なにかまずいのだろうか。

もっと、効率よく創る手順はないだろうか。

いろいろなところに、考える余地がある。

そういう、創造的な頭の使い方を少しだけ普段の生活に混ぜてみると

案外刺激のある生活に変わるかもしれない。

一度試してみてもいいだろう。

分からないものに怒る人が、大衆と呼ばれる。

人間というのは、分からないものが嫌いらしい。

人間関係においても、もちろんだが、社会においてもよく見られる。

宗教やスピリチュアル、占い、原発集団的自衛権、いろいろなものが挙げられる。

知らないものは怖い。

それが根源的な心理としてあるからだろう。

かと言って、勉強して知ろうとまでは考えない。

ちょっと、インターネットで検索すれば、さわりだけでも分かり、

何がダメなのか、本当はどういうものなのか、ということが理解でき、正しい意見を言えるようになるだろう。

それは面倒なのだろう。

ただ、ダメだとか、とにかく反対だとか。

無理なものの意見ほど厄介なものはない。

彼らは、受け入れるということをしないから、とにかく自分の主張をする。

図々しいにも程があると、思うのだが。

そういう愚かな人たちが、愚かな支配者を生むということにも気づかない。

政治家がダメなのは、民衆がダメだからだということを認識した方がいい。

民衆が賢ければ、政治家はバカではいられない。

まじめに、政治のことを考え、仕事に取り組むようになるだろう。

政治とか、国家よりも賢くなってみなければ、そこで行われている本当のことはいつまでも分からない。

必要なのは、知ることと、考えること。

それの力が、国家よりも優れていることだ。

国への甘えと、怠惰は許されない。

間接的に、あるいは直接自分に跳ね返ってくるだろう。

それを跳ね返せるのは、賢い民間人だけだと思う。

分からないものを分かろうとすること。

知らないことを知ろうとすること。

自分が何とかしなければ。

そういう自立した精神を持った人が多くならなければ、社会はジリ貧になる。

愚かなままではいけないということを、はっきりと認識しておくべきだろう。

いつも、新しいことを探している。

僕は新しいことが好きで、いつも新しいことを探している。

成長したいという欲求が強いのだと思う。

あと、貧乏症なところもあるのかもしれない。

ただ時間を過ごすというのが、とてももったいなく感じるのだ。

映画なんかもたまに見るが、ハリウッドのアクション映画なんかはあまり興味が無い。

ミステリーとか、サスペンスとか、何かしら頭を使えるものが好きだ。

アクション映画というのは、中身がなく、何も得られないような気がするのかもしれない。

まあ、それも頭の使い方次第なので、それはそれで学べるものはあると思うが、

今は、まだ、そういうもの物に手を出す時期ではないと考えている。

いずれは、楽しみたいとも思っているが。

基本的なことを言ってしまえば、ボーっとしている時間がもったいないという心理が働いてるのだろう。

頭をつかうことをいつも意識している。

具体的なことを挙げたらキリがないので、それは避けるが、

もし~だったらとか、この人はどういう人だろうとか、いろいろなことを想像している。

頭の使い方に関する本が、いろいろ出ていて立ち読みしてみると、

最近良く売れているらしい本には、僕がしていることが乗っていて、共感する部分が多かった。

潜在的に、頭を鍛えたいと思っている人が多い証拠だろう。

実際に行動に移しているかどうかは、また、別だが。

僕の感覚で話すと、頭というのは、特に認識の話だが、高校から大学、大学から社会人と進むことによって、起こりやすいと思う。

高校から大学へ進むことによって、勉強に対する認識が変わったという人はよく聞くし(まじめに勉強している人がほとんど。)、

遅くとも、社会人になったときに、社会の見方が変わったという人が多い(実体験に基づくので、当然かも知れないが。)。

僕は、そういう認識が変わること、価値観が変わること、そういうことを求めて学びを得ている。

パラダイムシフトなんていう言葉も使われたりする。

これも、意識し続けていると、だんだんと変化が落ち着いてきて、価値観が変わる感覚というのが得づらくなる。

成長に限界はないと信じたいが、悟りとか達観に近づくにつれ、変化が起こりにくくなるのだろう。

僕もそういう段階に入りつつあることを感じている。

そろそろ、真面目さを捨てて、ちゃらんぽらんになってみるのもいいかもしれないとも考えている。

勉強することで精神的に得られる変化というのは、そろそろ限界かもしれないので

次は、不真面目になることで、新たな価値観を得ようという考え方だ。

色んな色を混ぜていくと最終的に黒くなるが、成長というのもそういう側面があるのかもしれない。

最後にはどこかに落ち着く終着点みたいなものがあるのだと思う。

そこへ行くには、両極端のことでも、経験してみないといけないことがあるのだろう。

人生は短いから、縛られないで、いろんなことをやってみるということを意識して生きてみると、面白いと思う。

生み出す人がいて、それを利用する人がいる。

何かを生み出せる人か、あるいは生み出された何かを利用するのがうまい人か。

社会で成功できる人は、基本的にこの2つに当てはまるだろう。

学者や研究者は前者に当てはまり、実業家や投資家は後者に当てはまる。

クリエイティブな仕事をする人は、その中間にいると言えるだろう。

どちらも必要で、上下があるわけではない。

なんで役に立たないことなのに勉強しなければいけないのか?

と学校の勉強を小馬鹿にしている学生は多いけれど、

では、君たちが使っている身の回りのものはどうやって出来ていると考えているのか?

と問いたい。

家電や、電子機器、家、道路、すべて、学問の恩恵で出来ているということ。

学問をおろそかにしていたら、そういうものは生まれず、

未だに自然しかない、不便な世界だったことだろう。

自分以外の人がやってくれるということなのだろうか。

それはそれでいい。

社会とは、役割分担がきくから、何でもかんでもやらなければいけないことじゃない。

得意なことや、好きなことで力を発揮してくれればいい。

単純に、自分には他にやりたいことがあると、主張すればいいだけなのに、

それができないというのは、やはりただの怠慢なのだろう。

何かしたいことがあるわけではないけれど、勉強はしたくないということだ。

そういうことが想像できないという時点で、それだけ能力が足りていないということが分かる。

勉強しなさいと言うしかない。

学校の勉強というのは、何かを学ぶということの取っ掛かりでしかない。

学校で教えてくれること以外に、何か学びたいことができたときに、

それを学ぶ方法を学んでいるということだ。

自分で学べるようになれば、学校へ行く必要はない。

引きこもって、好きなことを学び、極めるというのも一つの手だろう。

社会的に見れば、派手なのは学問に従事する側よりも、学問の恩恵を利用する側だから、

学問が苦手ならば、それを利用して社会の役に立つ方法を考えられる人になるしかない。

それができるようになりたければ、結局、自分で学べる力をつける必要がある。

だから、学生時代で、やりたいことがないうちは、とにかく勉強に打ち込んでみたらいい。

適正によって、学者か、実業家か、あるいはそれ以外か、

どこに着地するかは変わってくるが、社会的に、いわゆる成功を手に入れることができるだろう。

毎日が同じことの繰り返しなら、なんのために生きているんだろう。

基本的に人生というのは、嫌なことのほうが多く起こるように感じられる。

なにか夢中になれるものでもあれば、多少はものの見方が変わるから、

楽しい物に変わるだろう。

ただ、やはり多くの人は、そういうものを見つけられない。

だから、つまらない毎日を送っている。

それをつまらないと思えないほどに麻痺してしまっている人も見受けられる。

何が面白いかは人それぞれだから、本来は他人に言われるようなことではないが、

それでも、楽しんでいる人間というのは周りから見ても、そうだと分かることが多い。

だいたいのことは、雰囲気で分かる。

生きていて、楽しくない、面白くない。

それでも生きているのは、死にたくないという恐怖からだろう。

生きていたいわけではないのなら、死んでしまったほうが楽なような気はするが、

そういうことではないのだろう。

生きたいわけではないけれど、死にたくはない。

複雑なのか単純なのか、微妙なところだ。

死そのものが怖いのか、死に至るまでの苦痛が嫌なのかは分からないけれども、

それほどまでに死にたくないという欲求は強いらしい。

死にたくないから生きている。

まあ、悪くはないが、どうせ生きているのなら、楽しめばいいのにと思わなくもない。

楽しいことが見つからないのは、結局、行動していないからだろう。

時間つぶしの面白さと、時間を忘れる面白さは、同じようで違う。

体験すれば分かるはずだ。

手軽なことから得られる面白さとは、やはり手軽なものだと思う。

達成感みたいなものが欠けているのだろうか?

まあ、そういう手軽なものを量産する、というのもひとつの手ではある。

ただ、いつまでも心に残るものではないだろう。

僕は、そうでないものも、両方経験しているのから分かるが、

やはり手軽な面白さはその程度のものだと思っている。

自分から行動を起こして得た、面白さというのはいつまでも心に残る。

そういうものを僕はたくさん経験していきたいと思っているし、

そういうふうに動いている。

これを読んでいる、つまらないと思いながら生きている人も

何か行動を起こしてみたら、面白いだろう。

いろいろ経験してみることは損ではない。

体験するということを意識しながら生きてみれば、

面白い人生を送れるのではないかと思うので、一度は試してほしいと思う。

書くことが苦手な人に。

書くことが苦手な人が、とても多いらしい。

そんな人にアドバイスできるとしたら、人と話せ、ということだろう。

書くことは、考える力がなければ上手くいかず、

それを訓練するには人と話すことが一番効率がいいと思う。

当然、実際に文章を書きまくるということも同時にしていかなければいけないが。

書くのがうまくなりたければ、とにかくたくさん書いてみればいい。

数をこなすというのは、上達に向かうためのセオリーである。

もちろん、だらだらやっていては意味がなく、

何かしらの課題を設けたり、意識を持って取り組まなければならない。

話すというところに話を戻すと、

コミュケーション能力が上がるというのが大きい。

書くとは言っても、することは、自分の意志を伝えることであり

それは、つまり、コミュニケーション能力の一つなのである。

書いていたら、自分の言いたいことから、どんどん離れていくという現象がよく起こる。

そのたびに、戻って直して、を繰り返していくうちに、

書くことが嫌になってやめてしまうことが多いようだ。

だから、比較的簡単な、人と話すことで、練習してみたらいいんじゃないかということだ。

実際に人と話すという事のほうが、意志を伝えるのは圧倒的に簡単だから。

言葉以外にも、表情も使えるし、相手の顔を見ながらいろんなことが判断できる。

伝わているのか、いないのか。

これが同時に分かるだけでも、かなり助かると思う。

いろんなことを話してみるといい。

自分が話すだけではなくて、相手の話も聞いて、相手の理解を深めてみる。

そうしたら、おのずと、人間が分かるようになってくる。

人間が分かるようになると、伝わりやすい言葉、文脈、いろんなことが分かってくる。

上辺のテクニックではなくて、こういう、根本的な力をつけることを目指したらいいだろう。

若いうちに普遍性のある力をつけれたら、人としての魅力も高まることは間違いない。

とはいえ、具体的なテクニックのようなものとして挙げられるものもいくつかある。

例えで一つ挙げてみると、

着地点を先に決めてしまうことだ。

言いたいことがいくつもあったら、それだけ文が迷う。

一つ、着地点を定めることで、そのブレを無くしてしまえばいい。

他に言いたいことがあったら、

多少かぶってしまっても、他の記事としてまた書けばいいだろう。

こういったテクニックのようなものも、書き続けていくうちに分かってくる。

自分の経験から、感覚的に得たものはどんどん多用していけばいい。

人から聞いた、上辺のものは、すぐに使えるかもしれないが、自分の個性をぼやかすので、気をつけたほうがいいだろう。

人と話すことの大切さを、改めて認識してみるといいかもしれない。

思っているよりもいろんな能力が養われると、僕は思う。

優しくしたけりゃ、強くなれ。

本来、人間そのものとして上下というものはないのだけれど、
比較する基準を設けた場合には、どうしても上下ができてしまう。
偏差値、腕力、収入、人気、etc
こういうものが基準になりうる。
という前提での話。
人に優しくしたり、親切にしたり、助けたり。
こういうことは、たいてい、自分よりも下のものにしかできない。
してあげたいという気持ちはあるかもしれないが、そういうことではない。
精神的な話ではなくて、能力的な話で、機会的な話なのだ。
お金に困っていても、ホームレスに相談することはないだろう。
女性にモテないと悩んでいても、自分よりモテなさそうな人に教えは乞わないだろう。
そういう意味だ。
そもそも、向こうから求められないということ。
自分の気持ちがどうこうではなく、その機会がないということ。
金持ちになれば、お金の相談を受けるようになるだろうし、その人を助けるつもりがあれば助けられる。
モテる人であれば、どうやったら彼女ができるのかという相談にもアドバイスできる。
こういった構造が、基本的にすべての分野で成り立っている。
だから、その時その時、自分よりも下の人しか助けられないということだ。
自分より強いものには負けるという至極当たり前の話だと思う。